『両国の川開き』=隅田川の花火大会、大花火の想い出

両国の川開き
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第二話 日ビラ(hibira)

日ビラ

この「日ビラ」は、花火の打ち上げ日をお知らせするために、柳橋の料亭さん、船宿、要所等に貼られていたものです。
明治以降からも毎年行われていた「両国の川開き 花火」は、柳橋の料亭組合が中心となった「両国花火組合」によって運営されていました。
江戸時代の頃も、大川沿いの料理茶屋、水茶屋が打ち上げていたようですから、大変な歴史ある花火です。
戦後からの正確な話を聞きましたので、この「日ビラ」についてお話ししましょう。
現代のように簡単にコピーができなかった昭和23年に花火が復活しました。
戦後3年目から復活するそのバイタリティーに、まず凄いと思います。
そして、この「日ビラ」も一枚一枚、墨で手書きでした。以前は、当時の料亭組合長が書いたと記しましたが訂正させていただきます。
実際にその眼で見た方に確認が取れました。少なくとも戦後の復活時からは、柳橋在住の通称「箱屋の繁さん」が書いていました。見番の踊りの稽古場の広い座敷、舞台に何枚もの「日ビラ」を乾かすために、墨の香りとともにビラだらけになったそうです。昭和36年に中断するまで続きました。
写真の「日ビラ」は、もともとコピーがありましたが、紙に墨で書いてある本物…本紙をいただき、大事に額に入れています。これは、最後の花火(昭和36年)の「最後の日ビラ」だということです。
毎年7月頃になると舟宿小松屋の店内に飾ります。店内に違和感なく収まっているようで意外と皆さん気付かないのですが、ぜひご覧いただければと思います。

 

ー現在の花火大会ー

当日のバリケード

隅田川花火大会として復活した昭和53年からは、TVでも見られるようになり、中断前に比べれば随分と人の数が少なくなっていると思います。昔の資料を見ると、川沿いのありとあらゆる場所が人でぎっしり埋まっています。明治時代後半には、両国橋の欄干が崩落する大事件が起こるほどだったそうです。
時代背景があるとはいえ、多くの人々が本当に楽しみにしていたのでしょう。江戸時代から続く日本でおそらく一番名の通る花火大会。今でも100万人近くの観客を集めています。

現在、主な会場の浅草・吾妻橋付近では、ご覧のようなバリケードが作られて、川に人が寄ったり落ちたりしないようになっています。

当日会場に近い隅田川の橋は、「停止禁止」になり、車の通行を禁止して人がここを通ります。

バリケードは少し無粋な感じもしますが、安全のためやむを得ないのでしょう。江戸時代には、木で出来ていた両国橋が混雑のため落ちてしまったことも何回かあったようなので。

花火大会当日は、天候や潮のようすなど気にかかることばかり、安全に無事に打ち上げられることを願っています。

参考資料:江戸東京博物館、調査報告書「隅田川をめぐるくらしと文化」
平成30年(2018)2月3日訂正・加筆

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